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サラさんとらくさんのイスラームとユダヤな世界のコラボレーション! 
by collabo-sarakuda
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ムスリムのメッカ
 よく「~のメッカ」という言い方がされる「メッカ」が、イスラーム最大の聖地である「マッカ(ペルシア語ではマッケ)」のことであるというのは有名です。

 これは、世界中のムスリムが「神の家であるカアバ神殿」があるマッカに向かって礼拝をし、一年に一回ハッジ(巡礼)のためにこの地に集まってくることから、何かの中心となる場所のことをこう呼ぶようになったとのこと。

 そのムスリムの聖地マッカとはどんなところなのでしょうか?そこにある「カアバ神殿」とは?


 らくださんによると、ユダヤの神殿は神がそこにいる場所ではなく、神と向き合うための窓口のようなものであるとのことでした。
 では、マッカはムスリムにとってどんな場所なのかというと、全ムスリムの紐帯を確かめる場です。
 カアバ神殿は神がそこに存在する場所ではなく、全世界のムスリムがそこに向けて礼拝を行う方向であり、ムスリムが巡礼に集まってくる場所です。同胞愛を強調するイスラームにおいて、人種や性別、年齢の別なく全てのムスリムが同じ方向へ向かって礼拝を行い、またマッカでハッジという一つの行を行うことによって、統一感と連帯感を感ずるという、全ムスリムの統一のシンボルであるということができます。
 ユダヤ教においてもそうであるように、イスラームにおいても神は時間や場所に捕らわれることなく、あらゆるものから超越して存在するものですから、カアバ神殿あるいは神殿内にある「黒石」に神が宿っているなどということはあり得ません。


 イスラームの伝承によると、イブラーヒーム(アブラハム)が息子イスマーイール(イシュマエル)と共にマッカの基礎を作ったが町の始まりとされています。その後、人々は神への信仰を忘れてしまい、偶像崇拝の神殿に変えてしまったが、再びムハンマドがそれを正しい姿に戻したのだとのことです。

 預言者ムハンマドがマッカでイスラームの布教を始めた頃、マッカは多神教の聖地の一つで、カアバ神殿には360もの偶像が置かれていたと言われています。
 これらの偶像への信仰が強かったマッカでは、ムハンマドの唱える唯一神への信仰は受け入れられず、ヤスリブ(後のマディーナ=メディナ)のユダヤ教徒たちに招かれ、ヤスリブへと移住しました。
 このイスラーム初期には、ユダヤ教徒への遠慮もあり、ユダヤ人の聖地であるエルサレムに向かって礼拝が行われていました。しかし、ムスリムの勢力が増すに連れ、ユダヤ人との関係が悪化し、ついにはユダヤ教徒と決別し、マッカが礼拝の方向であると定められました。その後、630年にムハンマドによってマッカは征服され、偶像は全て破壊され、イスラームの聖都となりました。


 ムスリムにとってマッカは、礼拝の方向であり、ムスリムの義務であるハッジの目的地である、一生に一度は訪れたい聖地です。

 カアバ神殿を中心とする一帯は聖域=禁域(ハラム)とされていて、戦闘、流血、狩猟、樹木の伐採などが禁じられています。

ムスリムのメッカ_e0037131_412861.jpg

 これは世界中どこにいてもマッカの方角が分かる「マッカ方位磁石」。
 イランでは更にそこに、自分が何回サジダ(跪拝)をしたかをカウントしてくれるカウンターと、モフル(※)がついている。これで、自分が正しくマッカの方向を向いているか、何回礼拝を行ったか間違えずに済むという便利グッズ。

(※) シーア派でよく使う素焼きの小さなブロック。人間は土から作られたものであるということを忘れぬように、礼拝の際に額がそこにあたるように床に置き、跪拝を行う。第三代目イマーム・フサインが殺された場所であるカルバラーの土を使って作られたものが最も喜ばれる。マシュハドやゴムなど、シーア派の巡礼地におけるお土産品の定番。


 さら
# by collabo-sarakuda | 2005-10-22 04:02 | 宗教-イスラームとユダヤ
「神は神殿にいるのか」-ユダヤの神殿の役割と目的について
すっかり遅くなってしまいましたが、前々回のポスト「サラさんへの返答」のコメント欄にてサラさんから神殿に関して頂いた質問について、ごくごく基本的なことを簡潔にまとめてみました。

サラさんの質問はこのようなことでした。

「ユダヤでは神は神殿にいるものなのか、そして神はひとところにいるものなのか」

そしてそれに対してのらくだのの見解はこうです。

まず、ユダヤでは神は神殿にいるのではなく、ひとところに留まらずにどこにでも(時間も空間も越えて)いるものだと言われています。

ユダヤの神殿は神と人との関係を築くための事務所というかオフィスというか、まあそんな場所であって、そこに神が住んでいるということではありません。旧約聖書(トーラー)を読むと、神殿はユダヤによって建設されなければならないもの、と短絡的に解釈できるのですが、実はもっと込み入った話なんですね。

中世の代表的なユダヤ学者であるランバンとラシは、それについてまったく異なった解釈をしています。ランバン派のカバラ(神秘主義)的解釈では、いずれにしても神殿はユダヤのスピリチャルな必要性として建設されなくてはならなく、神殿は単なる建物ではなく宇宙のモデルであり、神秘的な意味合いを持っているとされています。

ラシ派では、はじめは人の精神レベルは物質なしに神とつながりを取れるほどに高いものなので神殿の必要はないと考えていましたが、モーセが十戒を授かるためにシナイ山にいる間に起こった「黄金の牛事件(人々が金で牛などの偶像を作り崇拝したこと)」で、そのレベルの人の精神では神とつながりを持つには物理的なものが必要だとして、神はモーセを通してユダヤの人に神殿を建てるように伝えたと解釈しています。

神殿は神に対して生贄(動物のみ)と祈りを捧げる場所として建てられました。旧約においては神殿に神はいないとはっきりと書かれ、神殿の中心部である「Holy of holies」と呼ばれる場所は空っぽでなければならないとされています。ちなみに、現在は嘆きの壁の下にある地下の遺跡の町を通り抜けて「Holy of holies」の裏側へ行くことが出来ます。

ユダヤ哲学で著名なランバム(ランバンとは別人です)は、本来、神殿において生贄を捧げるべきことではないと唱えましたが、旧約が人に与えられた時代にはユダヤ以外の世界中の人々は色々な生贄をささげることで神々とのつながりを持っていたので、ユダヤの人々も動物の生贄なしで神とつながりを持つことはできなかったのだが、しかしユダヤの人々が将来的に精神レベルを高めた時に、神殿へ生贄を捧げることは止めるだろうと解いています。

はじめての神殿は砂漠に建てられたテントのようなものでしたが、ユダヤの人々がBC1300年頃(今から3300年ほど前)にイスラエルの土地にやって来た頃からBC900年頃までの400年は、そのようなテント式神殿は色々な場所に移動し、その間、人々はいつでもどこでも彼らの好きな場所に生贄は捧げていました。BC900年になってダヴィド王は彼の王政を広めるために当時王国の首都であったヘブロンをエルサレムに移し、そこに普遍的な神殿を建てることにしましたが、相次ぐ戦いによってダヴィデ王の時代には神殿の建設は行われず、息子のソロモンが後を継いで王になった時代になってはじめて建築物としての神殿は建てられ、その神殿が史的には第一神殿と呼ばれる神殿となりました。そしてそれまではどこにでも捧げることの出来た生贄は、エルサレムの神殿でのみ、捧げることとされました。

神殿の役目は、神殿がユダヤの生活の中心となり、ユダヤの人々は一年のうちでは過ぎ越しの祭り(ペサハ)と、七週祭(シャヴオット)と仮住いの祭り(スコット)の三度の参拝を行うこと、そしてその年に最初に収穫された作物を捧げることなどでした。その他には、人が罪を犯した場合などにも動物の生贄を捧げましたし、サンヘドリンと呼ばれる最高裁判所と国会が置かれていました。

日常の礼拝は、神殿で行われるのではなく、それぞれ地域のシナゴーグで行われていました。そして以前サラさんと話していた不浄についてですが、不浄の人が清めなければならなかったのは神殿に参拝に行くためのみであって、日々の生活では清める必要はありませんでした。第二神殿の破壊後、生贄を捧げることはもう出来ませんので、今日においては毎日の礼拝で神殿時代に生贄がどういったものであったかが祈られています。

ちなみに、第一と第二神殿ともにユダヤ暦のアヴの月の9日に破壊されたので、現在でもその日が近づくとユダヤの人々は娯楽を控え、当日には絶食し、エルサレムでは嘆きの壁の前で徹夜で悲しみを表現します。
「神は神殿にいるのか」-ユダヤの神殿の役割と目的について_e0037131_20375241.jpg


らくだの
# by collabo-sarakuda | 2005-09-26 20:39 | 宗教-イスラームとユダヤ
スンニー派とシーア派について
 らくださんから、スンニーとシーアの違いって何?と聞かれていたのに、忙しさに紛れてうっかりしていました。
 この二つの違いを歴史や教義の上から説明し出すととても一口には書き切れませんので、とりあえず概略だけ説明します。


 イスラームの預言者ムハンマドは、預言者として、ムスリムとなった人々を正しい進行へと導く役割を負っていました。イスラームは社会的・個人的生活のほとんどをカバーしているため、預言者は信徒からの宗教上、生活上のありとあらゆる質問に答え、自らは信徒の規範として日々を過ごしていました。また、ムスリム集団に敵意を抱く勢力との争いに関しては、ムスリム社会の長として政治的な活動もしていました。この当時、彼以上に信頼でき、尊敬される人物はいなかったそうですから当然ですね。
ところが、預言者の死後、信徒の疑問に答えたり、周囲の勢力と政治的に折衝したりするために、イスラーム共同体をまとめ、導く指導者が必要となりました。それがハリーファ(khalifa後継者の意味、西欧でいうところのカリフ)です。
 もちろん預言者はムハンマドで最後ですから、政治的な後継者という位置づけであり、宗教的な意味ではありません。人間でしかない彼らには、宗教的な事柄を自ら解決するための能力はありません。
 しかし、毎日生活をしていると、疑問点や問題点はいくらでも出てきます。それを人間集団がどうやって解決するかというと、神が与えた書であるクルアーン(コーラン)を徹底的に分析することと、信徒の模範であった預言者の言動を参考にすること(このために預言者の生前の言動を記録したものがハディース)によって、疑問の解決を行ったのです。彼らは、「多分こうだろう」「恐らくこうした方が良いに違いない」といった類推や推測を行うことを好みません。あくまで預言者の慣行(スンナ)に従うことがムスリムのあるべき姿であると考えていたのです。

 ハリーファははじめ、ムスリムによる選挙により選ばれていました。初代のハリーファはアブー・バクルです。最も初期にイスラームに改宗した信徒の一人で、非常に信徒からの信頼も厚い人物でした。ムハンマド晩年の愛妻アーイシャは彼の娘です。
 二代目のハリーファはウマルで、はじめはムハンマドをはじめとするムスリムを迫害していましたが後に改悛し、ムスリムとなりました。彼の時代にイスラーム世界は爆発的に広がり、アラビア半島からエジプトまで軍を送り、エルサレムを征服し、アラビア半島からユダヤ人を追放しました。娘のハフサは預言者の妻の一人。
 三代目のハリーファはウスマーンで、選挙により選出されたにもかかわらず、一族や縁者を偏重する人事を行うようになり、不満分子により殺害されました。
 四代目のハリーファがアリーです。預言者のいとこで娘婿であるという立場から、血統を重視する一派からは早くから預言者の後継者として支持を受けていました。しかし、彼がカリフに選出された後、後継者の地位を巡ってムスリムは分裂し、争い、結局アリーも暗殺されてしまいます。
 この四人の選挙によって選ばれたハリーファの時代を、研究者は「正統カリフ時代」と呼びます。

 アリーを支持した人々はシーア・アリー(アリーの党派)と呼ばれ、後にアリーが省略されシーアと呼ばれるようになりました。
 そして、あくまで預言者のスンナに従って行動する人々をスンニーと呼ぶようになったのです。

 預言者には息子がいませんでした。息子がいることがステイタスであると考える非ムスリム・アラブは、常々それを馬鹿にしていました。しかしある日神は啓示を下し、預言者の末娘であるファーティマを通じて預言者の血は後生に伝わるとしました。
 その神聖な女性であるファーティマと預言者のいとこであるアリーの血を引く子孫は、イスラーム世界(スンニー派シーア派を問わず)ではサイイド(ペルシア語ではサイイド)と呼ばれ、敬意を表されます。

 アリーを預言者の後継者として信ずる人々は、アリーこそが預言者によって後継者として任命されたと信じ、ハリーファを認めず、アリーを初代のイマーム(指導者)として、ファーティマと彼の子孫を代々イマームとする血統主義を取ります。

 このように、預言者の血統に神聖性を認めるか否かがスンニー派とシーア派の大きな違いです。預言者も人間であるとするスンニー派は人間に神聖性を与えることを拒みますので、スンニー派とシーア派はこの部分で大きく対立します。
 もう一つ大きく対立する部分が、コーランの解釈についてです。スンニー派はコーランとハディースの厳格な遵守を求めますが、シーア派はスンニー派はコーランやハディースを表面的になぞっているだけで精神性がないとします。そして、「コーランの内面的な解釈」を行うことを求めます。これは両派の大きな違いです。もちろん、内面的解釈を誰もが行ったら、とんでもないことになりますので、イマーム(ペルシア語ではエマーム)と呼ばれる決して謝ることのない無謬の人物(預言者とアリーの子孫)のみが行えるということになっています。

 時代が下るに従って、シーア派はどんどんと分裂し、様々なセクトが登場します。その中で最も人口が多いのが12イマーム派であるとされていて、イランのシーア派もこれに属します。
 スンニー派の中にもイスラーム法の解釈の違いなどから大きく四つのグループが存在していますが、基本的な部分においては一致しています。

 私がイスラームについて何か説明する時、スンニー派とシーア派の解釈の違いについて述べるのはイスラームの解釈に大きな違いがあるからです。シーア派については、12イマーム派によるイスラーム解釈を説明させてもらっています。

 こんな風に、イスラーム解釈だけを取っても一枚岩とは言い難いイスラーム世界が、一部のテロ集団や政治家がお題目としている「イスラーム世界の統一」を果たせるのかどうか、かなり疑問があると思わずにいられないものがあるのです。
# by collabo-sarakuda | 2005-08-29 16:16 | 宗教-イスラームとユダヤ
サラさんへの返答。
昨日のサラさんからの質問ですが、コメント欄には書ききれそうもなかったので、こちらにまとめました。グリーンの文章はサラさんからの質問です。

ところでいくつか質問があります。

 「最後の審判の日」に、「正しい行いの人は新しい体(スピリチャルなものであって現世でいう体ではない)と共にあの世であるオラム・ハ・バで永遠に生き続けます。」
 とありますが、現世における肉体というのは蘇りの日には関係ないということなのでしょうか?

 イスラームですと、最後の審判の日に霊魂(ナフス)は元の身体で蘇るとされています。もちろん、埋葬された後、肉体は土に還り骨しか残らない、あるいは骨すらばらばらになってしまうわけですが、それでも最後の審判の日には神の力によって、元の肉体が再生されるとされています。これは恐らく、ユダヤで言う「新しい身体」とは違うものなのではないかと思いますが、どうなのでしょう。


これに関しては2つのアプローチがあります。

1; 現世の行いに基づいて審判が下されるので、その行いをしていた現世の肉体を再び得る。

2; 613のミツヴァ(しなければならないこと)とトーラーに忠実に生きることで現世の肉体ではなくスピリチャルな肉体を得る。これはユダヤでも輪廻を信じる派があり、輪廻をくり返すことによって最終的には一体どれが現世での本当の肉体かを決めかねるので、まったく別の形の肉体を得るだろうと考えられています。 


 それからもう一つ。

 死後、生前の行いに応じて、エデンの園にまっすぐ、あるいは洗浄期間をおいて魂が送られる、ということは、最後の審判の日まで、ほとんど全ての魂がエデンの園にいるわけですよね。
 でも、オリーブ山に葬られた人はメシアの到来の時に真っ先に蘇りを果たすことができると考えられているということは、新たな身体をもっての復活は墓地で行われるのでしょうか?
 肉体が葬られた場所というのも最後の審判の日に何らかの影響~いち早く復活を遂げることができるということだけなのか、他にもあるのか~があるということなのでしょうか?これは教理の中でそう述べられているのでしょうか?それとも人々がそう考えている、というくらいのことなのでしょうか?



あ、これはこの前のレポートにはごちゃごちゃしそうなので飛ばしましたが、亡くなった人の魂でもすべてがエデンの園にいけるというわけでもなくて、どうしてもゲヒノアムから抜け出せない魂もあるようです。例えばユダヤでありながら極端な反ユダヤ思想の持ち主であったり、神を冒涜し続けた人の魂はやはり12ヶ月ではどうも洗浄しきれないようで、敗者復活戦には参加できないようです。

ちなみに死者のよみがえりですが、これはユダヤの人だけが復活するのか、または非ユダヤの人にも当てはまるのか。このことも派によってバラバラの解釈です。


オリーブ山ですが、これメシアが黄金門から入るとされているので、その時には黄金門の向かいにあるオリーブ山を通過するだろうから、ここがよみがえりの場所だろうと一般には信じられています。なのでここが優先的だろうと。

そしてオリーブ山ではなく他の場所に埋葬されている人の新しい肉体は土の中を旅してオリーブ山まで来なければならず、他の国の墓地などにオリーブ山の墓地以外に埋葬される時は、亡くなった人の目の上に「迷わずにオリーブ山にたどり着けるように」とオリーブ山の土を乗せて埋葬する習慣があります。でも墓地に埋葬された肉体はよみがえりの肉体ではないので、なぜ土の中を旅してくるのかはよくわからないところですが、ユダヤでは死後の世界のこれといった確信的な考えがまとまっていないように思います。正統派の中でもかなりばらつきがありますね。

 
更にもう一つ。

 メシアが墓を不浄なものと考え…ということですが、ユダヤ教においては、死、死体、墓は不浄なものと考えられていますか?イスラームではムスリムの死や死体は不浄とはされていません。非ムスリムについては、不浄と考える派と、啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒。ゾロアスター教徒と仏教徒も第二級啓典の民)は不浄ではないがそれ以外は不浄と考える派とあるようです。図々しくいくつも質問をしてしまいました。ごめんなさい。


サラさん、謝るのはなしですよー。質問がたくさんあるほうがおもしろいでしょ?

ユダヤではユダヤの死体は不浄とされ、非ユダヤの死体は不浄とはされません。墓も同じく。なのでムスリムがメシアが不浄な墓地があるために黄金門にこれないだろうという考えはおかしい。メシアにとっては非ユダヤの墓地は何の意味もありませんもん。

ユダヤの人が亡くなった場合、その死体のある部屋のすべてのもの(机、皿、食器、そこに居合わせた人など)が不浄になります。死体に触れた人も不浄になりますし、墓に行けばその人は不浄になります。

これは神殿があった時代に不浄になった人は神殿には上がってはいけなかったので、何が不浄で不浄ではないかがはっきりと決められ、不浄となった場合には「赤い牛」と呼ばれる牛を焼いた灰で清めました。また神殿に上がらなければならない職にあったコーヘン(現在では非ユダヤの社会ではこれは単なる苗字だと思われていますが、実は聖職者を意味しています)の男性は、死体に触れること、葬式や墓地に行くことは禁止されていました。

でも現在では神殿がないので清める必要もなく、事実上すべてのユダヤの人が不浄の常態にあるわけです。それで現在はユダヤの神殿のあった場所(今は岩のドームの建っていますが)にはユダヤの人は上がれないんですよ。でも先日オリーブ山の墓地に行ったときに「コーヘンの迂回道」のサイン(下の写真)が立っていました。エルサレムでは時々コーヘンが立ち入ってはいけない不浄の場所を迂回させるサインを道端で見ます。神殿がなくなってコーヘンを含むすべてのユダヤの人が不浄であっても、まだコーヘンが不浄になることは避けたいようです。  
サラさんへの返答。_e0037131_154179.jpg


らくだの
# by collabo-sarakuda | 2005-08-10 01:16 | 宗教-イスラームとユダヤ
最後の日の復活はどのように行われるのか?
 らくさん、インディアナ・ラクダノ・ジョーンズ体験お疲れ様でした。
 ひげもじゃんのお墓もいろいろあっておもしろいですね。

 オリーブ山に行ったのは、1991年の11月初頭でしたが、日射しが強くて暑くて、上まで登るのが大変でした。

 ところでいくつか質問があります。

 「最後の審判の日」に、「正しい行いの人は新しい体(スピリチャルなものであって現世でいう体ではない)と共にあの世であるオラム・ハ・バで永遠に生き続けます。」
 とありますが、現世における肉体というのは蘇りの日には関係ないということなのでしょうか?

 イスラームですと、最後の審判の日に霊魂(ナフス)は元の身体で蘇るとされています。もちろん、埋葬された後、肉体は土に還り骨しか残らない、あるいは骨すらばらばらになってしまうわけですが、それでも最後の審判の日には神の力によって、元の肉体が再生されるとされています。これは恐らく、ユダヤで言う「新しい身体」とは違うものなのではないかと思いますが、どうなのでしょう。

 それからもう一つ。

 死後、生前の行いに応じて、エデンの園にまっすぐ、あるいは洗浄期間をおいて魂が送られる、ということは、最後の審判の日まで、ほとんど全ての魂がエデンの園にいるわけですよね。
 でも、オリーブ山に葬られた人はメシアの到来の時に真っ先に蘇りを果たすことができると考えられているということは、新たな身体をもっての復活は墓地で行われるのでしょうか?
 肉体が葬られた場所というのも最後の審判の日に何らかの影響~いち早く復活を遂げることができるということだけなのか、他にもあるのか~があるということなのでしょうか?これは教理の中でそう述べられているのでしょうか?それとも人々がそう考えている、というくらいのことなのでしょうか?

 更にもう一つ。

 メシアが墓を不浄なものと考え…ということですが、ユダヤ教においては、死、死体、墓は不浄なものと考えられていますか?イスラームではムスリムの死や死体は不浄とはされていません。非ムスリムについては、不浄と考える派と、啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒。ゾロアスター教徒と仏教徒も第二級啓典の民)は不浄ではないがそれ以外は不浄と考える派とあるようです。


 図々しくいくつも質問をしてしまいました。ごめんなさい。


 上の質問との関連は薄いのですが、思い出したことがあるのでご紹介しておきます。

 ユダヤ教徒の墓地ではどうか分かりませんが~多分同じだと思うのですが~、ムスリムの墓は、誰かが亡くなった時に、墓地の空いているところに順番に埋葬をするため、家族であってもばらばらの場所に埋葬されることもしばしばです。それを防ぐため、あらかじめ墓地の一角を家族の墓のために買っておく人もいますが、お金がかかるためにそうしない人も多いです。おかげで、テヘランの公共墓地では、お父さんのお墓とお母さんのお墓が自動車で移動しなくてはならないほど離れてしまうこともあったりします。

 他宗教でもそう言うことが多いですが、イスラームでも子供は清らかに産まれた存在であると考えられています。従って、子どもが亡くなった場合、現世の穢れに染まる前になくなったと考えられ、必ずや天国へ行くと見なされています。
 そのように必ず天国へ行くことができる清らかな子どもが、墓地の空きの都合で地獄へ行くかもしれない大人の間に葬られ、最後の審判の日に大人の間で復活するのはかわいそうだと考える人もいます。
 そのため、自分の子どもが亡くなった時に、同じように天国へ行く子どもたちと同じ場所に葬ってあげたいと考える両親も多くいます。
 こうした人たちの要望に応えて、テヘラン市の共同墓地(ベヘシュテ・ザフラー)には、子どもだけが葬られている一角があります。
 イランでは、木曜日の午後になると、早世した我が子に会いに子ども墓地区へやって来る人々を見ることができます。

最後の日の復活はどのように行われるのか?_e0037131_9351177.jpg

 これはテヘランの共同墓地内に設けられた子供用墓地。


 死後も家族で一緒にいたいという人には、家族用墓が用意されています。下の写真のような建物の一部屋を買うのですが、これがとんでもなく高額だそうで、相当なお金持ちでないと購入できないそうです。

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 これが家族用墓の外観。アーチ一つが一部屋の大きさ。


最後の日の復活はどのように行われるのか?_e0037131_9402281.jpg

 こちらは部屋の中の例。


 それともう一つ。

 イスラームの多数派であるスンニー派では、預言者以外どんな人物も最後の審判の日に神に人の罪のとりなしをすることはできないとされています。
 ところがシーア派では、預言者の従兄弟であり娘婿である初代イマーム・アリーの息子である第二代目イマーム・ハサンと第三代目イマーム・フサインの血統(つまり預言者の血を引く人々)の人々であるイマームとその家族は特別な力(バラカ)を持つと考えられ、神に対するとりなしの力を持っているとされています。
 このため、死後はイマームの近くに葬られ、イマームの持つバラカによって来世での幸運を得ようとする人が多くいます。

 サウジアラビアにも預言者や何人かのイマームの墓がありますが、シーア派に対して否定的なサウジアラビアへ遺体を運び、葬ってもらうのは難しく、ほとんど行われていません。
 第三代目イマームの殉教地であるイラクのカルバラー、初代イマームの墓所であるとされるナジャフ、イランでは第八代目イマーム・レザーの廟があるマシュハドや、ゴムにあるレザーの妹の廟であるマアスーメ廟が人気です。
 イランのレザー廟や、マアスーメ廟に一時間もいると、いくつもの棺桶が運び込まれ、廟を一周し、墓地へ運ばれていくのを見ることができます。また、イラン・イラク戦争中でもカルバラーへ家族の遺体を葬るため、こっそりとイラクへ遺体を運ぶ人も多かったと聞いています。

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 これはゴムのマアスーメ廟近くにある墓地の一つ。敷地は全部、墓墓墓。奥に見えるのは、イマームの血を引く聖者の一人の廟。


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 ちなみに、こちらはパキスタンとの国境に近い町、ザーヘダーンの町はずれに設けられたスンニー派の共同墓地。イマームや聖者の廟に寄りかかることなく、誰の墓か墓碑さえもない墓も多い。


 らくださんに指摘されたスンニー派とシーア派がどういうものなのかについては、まとめるのにちょっと苦労していますが、この次にはきちんと説明できるようにします。

肉体の復活についての物語
# by collabo-sarakuda | 2005-08-08 09:50 | 宗教-イスラームとユダヤ