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サラさんとらくさんのイスラームとユダヤな世界のコラボレーション! 
by collabo-sarakuda
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イスラームのサラート~義務編
二人してここしばらくとても忙しく、すっかりおき去られていたこのこらぼですが、引っ越しを機に、もう少し定期的にお送りできたらと思っています。これがこのこらぼでの新年の誓いでしょうか。

「新こらぼ さらくだ」第一弾として、どんな宗教でも重要であろう神への祈りについて考えてみようと思います。

 祈りと言っても漠然としていますし、簡単にまとめるのは非常に難しいので、いくつかのカテゴリーに分けてまとめてみたいと思います。

 イスラームでの祈りというと、ムスリムがマスジド(モスク)に集まって、一斉に立ったり座ったり、地面にひれ伏したりしている姿を連想することと思います。

 この集団での礼拝もイスラームにおける大切な行為の一つではありますが、ムスリムが毎日このようなことをしているわけではありません。じゃあ、毎日彼らはどのようにして神に祈りを捧げているのか?今回は、ムスリムの義務としての礼拝について簡単にまとめてみたいと思います。

 まずは、イスラームで礼拝というのがどういう位置づけにあるか。

 礼拝は、アラビア語ではサラート、ペルシア語ではナマーズと言います。

 ムスリムが行うべき義務として5つの行為があります。信仰告白(シャハーダ)、サラート、喜捨(ザカート)、ラマダーン月の断食、ハッジ月の巡礼がそれです。この五つを行わないムスリムは宗教的な罪を犯すことになるとされています。ただし、ハッジ月の巡礼は義務とはいえ、様々な条件により行えないムスリムもいるため、それを行うことができるムスリムは行うこと、となっています。

 これを見ると、サラートというのは、ムスリムとしての義務の二番目にあげられている重要な義務であることが分かります。しかし、シャハーダはムスリムとしての前提でもあるので(シャハーダを唱えることでムスリムとなる)、ムスリムが行うべき義務としてはサラートは第一と言っても良いかもしれません。

 ムスリムはサラートを通じて神への服従を示し、またサラートを通じて神との精神的な交流を行い、内面を清らかに保たなければならないのです。

「我こそはアッラーである。このわしの他に神はない。さればわしに仕えよ。わしを心に念じて礼拝せよ」(ター・ハー章第14節)



 ムスリムの義務として行われるサラートは、一日五回行われます。これは、健全なムスリムの男女が必ず行うべきものとして、アッラーから命じられた礼拝です。その五回とはいつか。それは次の通りです。

 夜が白み始めてから日の出前までに行うファジュルのサラート。

 正午(太陽が南中した時)から三時間以内に行われるズフルのサラート。

 ものの影が本体と同じ長さになった時から日没までの間に行われるアスルのサラート。

 日没直後から次のサラートまでの間に行うマグリブのサラート。

 日没後完全に暗くなってからファジュルの礼拝までの間に行うイシャーのサラート。

 この五回のサラートは神が人に対して与えた命令ですから、心身共に健康なムスリムが必ず行わなければなりません。そして、サラートの前の清めからサラートの所作や回数、方角などがしっかりと決められていて、それがきちんと守られないサラートはサラートを行ったと見なされません。

 しかし、時間に関しては、上の説明を見ても分かる通り、サラートを行うべき時間には幅があります。

 昔は塔や屋根の上からムアッズィン(サラートの呼びかけを行う人)が美しい声で、そして現在はテレビやラジオ、マスジドのスピーカーから、サラートへの呼びかけ(アザーン)が行われ、人々はアザーンによってサラートの時間が来たことを知ります。アザーンが聞こえてきたら、仕事の手を止めてサラートを行うことが勧められますが、これは決して強制ではありません。その時、どうしても手が離せない仕事があったなら、それを終えてからサラートを行えば良いとされています。また、仕事などがどうしても終わらなくてサラートを行うべき時間帯を過ぎてしまった場合でも、カダーのサラートを行えば良いということになっています。

 一日五回のサラートが義務として定められているとはいえ、それはやむを得ない時まで無理をして行わなければならないものではないのです。

 イランの役所などでは時々、ナマーズ(サラートのペルシア語)の時間になるとどんなに大切な仕事があってもその仕事を放り出してナマーズを始めてしまう人がいます。たとえお客が来ていても、ナマーズを口実に1時間でも待たせて平気な人すらいます。

 これはイランのイスラーム政権的には素晴らしい行為かもしれませんが、本来は決して誉められた行為ではないと考えられています。なぜなら、行うべき仕事を放り出し、他人に迷惑をかけながら行うナマーズは、人にナマーズをしていることを見せびらかしているだけのものであって、神への服従や信仰の清めという本来のナマーズの意味を失っているからです。イスラームの預言者ムハンマド自身、「人に見せびらかすためのサラートは行わない方が良い」と言っています。

 イスラームの倫理書の中などでもこうした礼拝を、マッカ(メッカ)へ向かおうとしてトルキスタンへ歩いているようなものだと形容しています。つまり、神の道から外れ、全く的はずれなことをしているというのです。

 ところで、本来一日五回行われなくてはならないはずのサラートですが、なぜか、イランのシーア派の人々は三回しか行いません。スンニー派アラブ人がイラン人がいかに不信心かを言う時に必ず攻撃するのがこれです。

 毎日、テレビやラジオのニュースの中で、あるいは新聞の中でアザーンの時間が発表されますが、ファジュル、ズフル、マグリブの三回しかありません。この理由は、イランの人に聞いても今一つはっきりしません。アスルはマグリブと、イシャーはファジュルと一緒に行われるからだ、というのがよく行われている説明です。ただし、それだと、二回分のサラートで行うべきラクア(サラートで使われる単位、詳しくはまた別な機会に)を行わなければならないはずなのですが、イランではそうではないことが多いので、あまり説得力がないようです。

 ついでに、もう一つスンニー派から言われるイラン人のサラートに対する態度の問題点について。

 サラートへの呼びかけであるアザーンですが、現在は、マスジドに備え付けられているスピーカーから大音量で流しているそうで、イスラーム圏を旅行した人がよく、「アザーンで目が覚めました」と言います。

 ところがイランでは、よほどマスジドに近くない限りアザーンで目を覚ますということはないようです。なんでも、大音量でアザーンを流すと近所から苦情が来るのだとか言うのですが、本当なのかどうか。テレビやラジオでアザーンを流しているから必要ないのだ、という意見もありますが、どれが正しいのか何とも判断がつきかねます。

 同じイラン国内でも、スンニー派の方が多い地域へ行くと、ファジュルの礼拝のためのアザーンで飛び起きるということが起こりますので、やっぱり、苦情が出るから音量を下げているのかもしれないという気もしてしまいます。

 更にもう一つ。イランでナマーズを行わない人の言い訳は必ず、「私は神を信じているのだから形式にすぎない礼拝などする必要はないのだ」です。

 しかし、最初にお話しした通り、サラートはムスリムの義務として神から命じられた行為です。神を信じていることを神からの命令に従うという行動で表さないことは、神の命令に従わない不信心者であると非難されます。

 本題へ戻します。

 サラートを行う場所として、イスラーム圏では壮大で華麗なマスジド(ペルシア語ではマスジェド)が権力者によって建てられたりしますが、サラートは、清浄な場所であればどこで行っても構いません。そのため、オフィスや商店の片隅に礼拝用の敷物を敷いてサラートを行う人もいれば、旅行中に車を止めて道路脇の荒野の中でサラートを行っている人を見ることもあります。また、オフィスや空港などの中には礼拝用の小部屋が用意されていたりすることもあります。

 サラートは色々と作法が決まっているということは最初に触れましたが、作法さえ知っていれば個人で行うことができるものです。神との仲介役は必要なく、常に一対一で神と対峙し、祈ることが求められています。

 個人で神と対峙するサラートですが、その一方で、ムスリムの連帯を強め、互いに信仰の道を歩むことを確認し、励まし合うために良いということで、義務ではありませんが、集団での礼拝が勧められています。このため、集団で行うサラートは、個人で行うサラートの25倍(法学派によっては27倍)の価値があるとされています。

 しかし、実際には仕事を持っている人が平日に集団でサラートを行うことは難しいです。

 アザーンの後、人々はマスジドや礼拝用の部屋へ三々五々集まってきますが、一斉にサラートを行うことはなく、自分のペースでサラートを行い、終わった人から仕事へ戻ったり、そのまま昼寝をする人もいたりという具合です。

 義務として集団で礼拝を行うのは週に一回、金曜日の午後です。

 イスラームでは金曜日が休日ということになっていますが、これはユダヤの土曜日のシャバットやキリスト教の日曜日の概念とは違っていて、あくまで「集団礼拝を行う日」という意味でしかなく、決して「休日」「安息日」ではありません。

 アラビア語で金曜日を「ジュムア」と言いますが、これは、集めるという意味の動詞「ジャマア」が名詞化したもので、集団礼拝のために集まる日、という意味であることがこの言葉からも分かります。クルアーン(コーラン)でもこのように言われています。

「信仰する者たちよ、集団礼拝の日の礼拝の呼びかけがあったらアッラーを念ずることに急ぎ、商売から離れよ」(ジュムア章第9節)

「礼拝が終わったら、大地に散らばり、アッラーの恵みを求め、アッラーを多く唱えよ。きっとお前たちは栄えるであろう」(同第10節)

 このように、金曜日は休日ではなく、仕事をしても構わない日であり、ただ、集団礼拝に集まる日だということが分かります。

 この金曜日の集団礼拝には、健康で理性ある成人男子は必ず加わらなくてはならないとされています。子どもや女性は自由意思によって参加できますが義務ではありません。

 普段のサラートとは違い、イマームと呼ばれる集団礼拝を導く人の指導によって集団礼拝は行われます。

 イマームは、現在は宗教学校で学んだいわゆる聖職者がその任に当たりますが、これは別に資格があるわけでなく、礼拝の作法に通じていて、イスラームの教理について人を導くことができる人物であれば誰でもイマームになることができます。

 アザーンの後、イマームはミンバルと呼ばれる説教壇の上から説教(フトバ)を行い、イスラームに関する問題や社会的な問題など、様々な問題が話されます。

 フトバの後、イマームに先導されて、集まった人々が一斉に礼拝を行います。これが、写真やテレビの映像などでよく見られる礼拝の様子です。

 金曜日に行われる集団礼拝には多くの人が集まるため、町で一番大きなマスジドが「金曜日のマスジド」として使われ、あるいは金曜日に使うことを目的として作られてきました。

 ムスリムの義務として行われるサラート(礼拝)についてはこんな感じでしょうか。本当ならもっと詳しく説明すべき箇所も多いような気がしますが、煩雑になりすぎますので概要だけお話しました。

 義務ではない祈りについては、また、次回に改めてお話ししたいと思います。
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by collabo-sarakuda | 2006-01-07 05:00 | 宗教-イスラームとユダヤ
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